STORY 01
創業から終戦まで

STORY 01
創業から終戦まで

揺れ動く時代を駆けてきたクマヒラ

クマヒラが創業し、歴史が始まったのが明治中期になります。
さまざまな社会背景の中で、金庫メーカーとして自立し、拡大・拡充を遂げてまいりました。
それぞれの時代ごとに、クマヒラの歴史をご紹介いたします。

THE MEIJI・TAISHO ERA明治・大正

  • 創業者熊平源蔵の生い立ち

    明治14年6月24日、現在の株式会社クマヒラ中四国支社の向かい側の地である広島市革屋町で出生。明治27年3月、源蔵は広島市立高等小学校を卒業すると商業高校への進学を希望するも、父の許しを得られず断念。しかし、生来の勉強好きで暇を見つけては私塾の門をたたき、知識の習得に余念がなかった。源蔵は祖父が革屋町に構えた小間物店の家業に従事し始めたが、日清戦争が終戦したことで戦争景気が終わり、不況が訪れた。源蔵が独り立ちすることを思い始めたのがこの頃である。

  • 熊平商店創業

    明治10年の西南戦争、同27年の日清戦争により人々の財産へ直接的被害が及ぶ中、両親が商いをしていた源蔵は、お金や帳簿類を守ることができる金庫の重要性を自然と認識する。明治31年「人々の大切なものを守りたい」という信念のもと、源蔵は弱冠16歳で当時全国的なシェアを持っていた東京の金庫メーカー・竹内金庫と代理店契約を結び、金庫の販売・修理を主業務とする熊平商店を創業した。

    広島市街業務案内地図(明治38年、広島市公文書館所蔵)

  • 創業当時の営業活動

    源蔵は毎日二人の店員と共に、広島郊外まで足を伸ばし裕福そうな家を目当てに金庫を売り歩いた。東京の竹内金庫の他、大阪の安価な金庫メーカーも扱っていたが、地方の家庭にまだなじみのなかった金庫は売れるはずもなく、源蔵は売り上げを伸ばすために広告で名前を売ることを考えた。明治31年、地元中国新聞で熊平商店として初めて、単独で金庫の広告を掲載した。年々広告の内容は進み、金庫の他にも「人力車」「郵便切手はがき」「保険鍵」「貯金箱」など掲載商品は多岐に渡った。

  • 京城支店を開設

    明治37年、広島に工場を建設するが、竹内金庫と代理店契約を結んでいたため金庫製造は契約違反となり、源蔵は日本での金庫製造を断念した。明治39年、周囲の反対を押し切り朝鮮半島中心地に京城支店(現在の韓国・ソウル)を開設した。出店後間もなく日本は国家機関を朝鮮に進出させ、民間企業も続々と玄界灘を渡った。大正時代に入ると、新興コンツェルンが続々と進出し、熊平商店の重要な得意先となった。販売品目も金庫だけではなく、日本の熊平商店と同じ商品を陳列し、カタログ販売に重点を置き、熊平商法を推進した。

  • 『熊平タイムス』を創刊

    明治42年、カタログ販売として使用するために『熊平タイムス』を創刊した。『熊平タイムス』は熊平商店で販売している商品を写真付きで説明し、「遠隔地・交通不便の地でも、また代金は月賦払い・延べ払いも可」とユーザーの利便性にも配慮した独特の通信販売方法を取り入れた。創刊号は正味16ページほどだったが、次第にカタログは分厚くなり、昭和13年に発行した第29巻は126ページの大冊となった。

  • 熊平商店革屋町の新店舗

    大正4年、創業時の広島市天神町から現在の株式会社クマヒラ中四国支社の地、広島市革屋町に移転した。店の外装は洗い出しの壁、2階の窓は真ん中あたりに金文字で「熊平商店」と浮き彫りが施されていた。店内は吹き抜けで、高い天井から大きなシャンデリアが接客場の真ん中に吊り上げられており、風格があった。当時の社員は50名前後。店を閉めると暗くなり、近所の店の売上に影響が出るため、夜は住み込みの者が店を9時ごろまで開けていた。

EARLY SHOWA ERA昭和初期

  • 満州に株式会社熊平商行を設立
    拡充する満州と朝鮮の拠点
    熊平商行設立5周年記念式典

    昭和7年、日本で出来なかった金庫製造の夢を果たすためには新天地でという思いから、源蔵は満州の新京特別市(現在の中国・長春)に「株式会社熊平商行」を設立した。満州には国家建設のための諸会社ができ、熊平商行も書類庫や金庫を買ってもらえるようになり、売り上げを伸ばした。昭和8年、新京の鉄嶺屯に念願であった製造工場「熊平商行新京工場」を建設した。昭和12年、海外の販売店の業績が順調に伸び、源蔵が各地(京城・新京)で熊平商行設立5周年記念式典を行った。

  • 『熊平内報』の創刊

    昭和12年、社内広報誌『熊平内報』を創刊。常々、若者教育に熱心であった源蔵だが、社員教育についても独自のこだわりと信念を持ってあたっていた。国内には本店と2か所の出張所、海外にも本店と出張所、工場が朝鮮に5か所、満州に3か所といわゆるチェーンを形成していた。当時この社内報は、各支店や工場と本社、社員とトップをつなぐコミュニケーションツールとして重要な役割を担っていたのである。

  • 創業40周年記念日に広島工場竣工

    昭和12年、日中戦争が勃発。国内では物不足が深刻化し、鉄鋼などの資材は軍需優先として厳しく統制される中、源蔵は広島に金属・スチール製キャビネット類の生産を目的とした工場建設を決意。同年に建物が完成し、翌年の昭和13年1月、40回目の創業記念日に竣工式が行われた。同年の4月、広島工場でスチールキャビネットに次いで、金庫の製造に取り掛かろうとしていた矢先、「国家総動員法」が発令。民需用の鋼製品の製造が制限され、スチールの配給がストップしてしまったことで、源蔵の計画は大きく狂ってしまった。

  • 新京工場で金庫製造

    広島工場での金庫製造の道を断たれた源蔵は満州で金庫の製造を開始することを決意。昭和15年、金庫職人の2名を新京工場に派遣し、新京工場で本格的に金庫の製造を開始した。工場ではまず、2人の頭の中にある金庫や軽量金庫扉の数字などのノウハウを図面化することから始め、現場も彼らの指導を受けて作業にあたった。日本内地で製造できない製品とあって金庫はよく売れ、業績は向上。やがて製造が追いつかなくなったため、昭和16年に奉天工場(現在の中国・瀋陽)を建設し、生産体制を拡張した。

BEFORE AND AFTER THE WAR 戦中から戦後にかけて

  • 広島工場が内務省指定工場に

    「国家総動員法」により鋼製品の製造が制限され、消防ポンプの製造に傾斜せざるを得なかっため、昭和14年、熊平商店は大阪に「仕入部」を開設し、森田ポンプと代理店契約を結んだ。やがて消防ポンプは代理店販売から広島工場で製造することとなり、昭和18年、その実績と性能の良さから広島工場は内務省からポンプ指定工場に指定された。当時、メーカーに対する製造機器類や材料は政府の割り当てを受けなければ入手できない統制経済下にあったため、内務省の指定工場になるということは材料の入手が有利になることを示していた。

  • 株式会社熊平製作所設立

    昭和18年、軍需会社法が施行され、民間会社は全面的に国家管理下におかれ、国策として個人経営から株式会社への移行が要求された。同年12月、「熊平商店広島工場」を「株式会社熊平製作所」として独立させた。軍需工場となった「熊平製作所」だが、武器を一切作らず、消防ポンプという安全部門の製品製造に徹した。国民の生命・財産を守るという意味からも、クマヒラの方針にあう仕事であった。

  • 終戦時の熊平チェーンの実情

    昭和20年、日本は8月15日の玉音放送をもって長い長い戦争にピリオドを打った。クマヒラとしても、満州と朝鮮の販売店および工場を全て放置して撤退するしか道はなく、戦争により海外における全ての財産を失った。当時、源蔵は64歳、普通なら再起不能といってもいい年齢であったが、清一、武二という後継者が育っていたことや、熊平製作所の工作機械が無事であったことで直ちに事業再開にとりかかった。

  • 金庫と原爆

    広島に進駐した米軍の一兵士が原爆にあった金庫を撮影し、原爆にも安全な金庫扉としてアメリカの雑誌に掲載されたことから、モスラー社製の金庫が一躍有名になった。アメリカの他の金庫メーカーもこれにならって続々と調査団を派遣し、銀行の金庫扉を調査した。日本でも原爆の被害調査という視点から、銀行の被害状況調査が行われた。その報告書の一つに、「2日間にわたって建物内は燃えていたが、金庫室だけは堅牢に作られていたので、無事だった。被爆数日後に、熊平商店が応急修理を施してようやく開閉可能となった」という注目すべき記録も残っている。

苦難を乗り越え念願の金庫メーカーへ

商品の販売と修理を行う個人商店であった熊平商店から、工場を建設して製造メーカーとなったクマヒラ。
戦争の危機を乗り越えてたくましく復興し、メーカーとしてのノウハウを蓄積して行きます。

「金庫のクマヒラ」として
名をはせるまでの背景をご紹介

STORY 02戦後の復興と
事業基盤の確立

近年の出来事と製品開発をあわせてご紹介

STORY 03市場拡大と
トータルセキュリティ
企業への道